叔母さん

叔母さんが乳癌で亡くなってもぅ7年目になるなんて、本当に月日が流れるのは早いと感じます。叔母さんとは京都市で、自転車で5分ともしない距離にいて、大学生時代は一時期しょっちゅう逢いに行っていました。仕事が忙しくなると全然行かなくなって、7月に転勤が決まって、何も言わずに名古屋に引っ越してしまいました。落ち着いたら伝えようかな?なんて軽い気持ちでした。引っ越した日ですから、よく覚えていますよ。2012年7月25日。両親に引っ越しを手伝ってもらい、両親が帰ったしばらくのちに電話がなりました。だるそうに出たんだろうなと思います。当時両親がそんなに好きではなかったから。大学院に行くための奨学金を生活費に使われ、大学院の学費を滞納され、場合によったら停学をくらうとこだったし、家族という社会的集団に義務として加入させられている、なんて社会的な冷たい考えをしていました。そんな両親から「叔母が亡くなった」と聞きました。正直意味がわからなかった、だって、最近会いに行っていなかったし、あの人はカンチュウハイ片手によく笑う豪快な叔母でした。亡くなる気なんて何も感じなかったからです。…でも、初めて知りました、以前から癌で手術していたことを。最終転移して、それでも入院せずに仕事して、なくなっていったことを。あぁ、なんてカッコいい人だろうなと、心底思いました。私が遊びに行ってるあの時、すでに癌と闘っていたんですって。人並みに悩むくせに人並み以上に笑顔で豪快な人で、小さな頃、鍵っ子な私にとって、叔母は大好きな存在でした。初めて、亡くなった身内でしたから、死に直面すること自体が初めてでした。あとは上司に連絡し、すぐに京都にとんぼ返りしました。なくなった叔母の前で号泣しましたが、私は私のことでしか泣けませんでした。私は何も出来なかったし何も知らなかった。知ろうとしなかった。私は私が悔しくて、私のことでしか泣けない。叔母のためにさえ、まだ泣けないんだ。それから7年、行ける限り叔母の墓参りだけは行くようにしています。仕事のこととか、好きな人のこととか、最近なくなった祖母や祖父の話をしています。貴方のように、豪快に笑って色々な人を笑顔にしたい、貴方のような生き様を描きたい。貴方と違う、貴方になりたい。いつかちゃんと、貴方のために泣ける自分になりたいと、目指しています。一時期貴方に会いたくて、追ってしまいたいと、思った時もありました。だけど、それでは私が好きだった叔母との生き方が矛盾してしまう。だから辞めました。またこれからも花を供えに、顔を出しにいきます。私は一人でも大丈夫だから、どうか貴方の子供や夫を見守ってあげてください。いつか貴方の魂に会えるのを、楽しみにしています。

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