大好きなおじいちゃんへ

祖父は私の誕生日に亡くなりました。
お盆に亡くなる人は寿命を全うした人と聞いたことがあります。私の誕生日はお盆の中日です。

母のおなかにいるとき、へその緒が切れて首に巻き付いてしまい、仮死状態で生まれました。生まれてすぐに人工呼吸器を装着され、3日後に初めて産声を上げたと聞きました。

もう少し病院に行くのが遅かったら、私はこの世には存在していなかったかもしれません。
お盆というご先祖様が帰ってきているときだったからこそ、私は助かったのだと思っています。

去年亡くなった祖父は、猫とマラソン、相撲が大好きでした。
若いころはお酒を呑んではご近所の方とトラブルになり、だんだんお酒の席にも呼ばれることが少なくなり、寂しそうな祖父の姿をなんとなく覚えています。

祖父は私たち孫をとてもかわいがってくれました。
私は内孫では初孫だったので、祖父母からは特にかわいがってもらいました。

両親が共働きだったこともあり、私も妹も祖父母に面倒を見てもらっていました。
私は幼いころから体が弱く、度々熱を出しては幼稚園をお休みして、祖父母に看病してもらっていました。
幼稚園バスのバス停までは、うちからは歩いていくには遠く、祖母の自転車の後ろに乗るか、祖父の原付で送ってもらっていました。
私は祖父の原付に乗ってバス停まで行くことが恥ずかしく、いつもバス停よりも手前で降ろしてもらっていました。
幼稚園が休みの日は、うちから一番近い公園まで、よく原付で連れて行ってもらいました。
公園の帰りには、近くの駄菓子屋ですももの飴を買ってもらい、祖父が小さく砕いてから、食べさせてくれていました。

そんな私も成人し、結婚・出産をし母となりました。生まれてきてくれた子供に病気と奇形があり、義理の両親から責められ心身を病み、子供を連れて実家に帰っていたことがありました。

祖父は口数が多いほうではなく会話は少なかったのですが、いつも静かに見守ってくれていました。

日中は祖父と私と子供の3人でいることが多く、お昼近くになると祖父はよくそっと出かけてお弁当を3つ買ってきてくれました。

3人で食べたお弁当、とてもおいしかった。

それから数年が経ち、前の夫とは離婚し再婚して新たな命にも恵まれ、平凡ですが幸せだと感じられる日々を過ごしていたとき、1本の電話がありました。母からでした。明け方、祖父が庭で倒れていた、救急病院に搬送され意識不明の重体だと言われ、頭が真っ白になりました。

祖父は高齢でいつ旅立ってもおかしくはない年齢でしたが、まだまだ会えると思っていたからです。
仕事を早退し、病院へと急ぎました。たくさんの機械に繋がれた祖父が横たわっていました。それから一度も目を覚ますことなく、倒れてから5日後に亡くなりました。

仕事や子育てで忙しいことを理由に、私はあまり実家に顔を出すことはありませんでしたが、たまに行くと祖父は嬉しそうに生まれたばかりの私の子供にお小遣いをくれました。

私は祖父に何もできませんでした。何もしてあげられませんでした。こんなにたくさん愛情を注いでもらったのに、ありがとうと伝えることもできませんでした。

実家に行けばいつでも会えると思っていました。いつまでも元気でいてくれるような気がしていました。言わなくてもわかってくれていると甘えていました。

間もなく、祖父が亡くなってから1年が経ちます。今でも祖父が生きて、縁側に座り、笑っていてくれているような気がしています。
きちんと祖父にお別れが言えなかったからなのか、ありがとうと言えなかったからなのか、なかなか会いに行かなかった罪悪感からなのか、私はまだ祖父の死から立ち直ることができていません。

もっとまめに帰ればよかった。いろんなところに連れて行ってあげればよかった。たくさんひ孫の顔を見せてあげればよかった。なにより、ちゃんと「ありがとう」と伝えればよかった。

口数が少なく頑固なところもある祖父でしたが、さみしがりやだったのだと思います。

だからこそ、私の誕生日に旅立ったのだと思っています。何年経っても私の誕生日が来るたびに、私たちは祖父を思い出します。
おじいちゃん、私たちはおじいちゃんを忘れたりしないよ。
私は、そんなさみしがりやで優しい祖父が大好きでした。
おじいちゃん、ありがとう。ゆっくり休んでね。

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