第2の母

おばあちゃん、今何をしていますか?
おじいちゃんといつものように仲良く過ごしていますか?

私の両親は共働きだったこともあり、生まれて8か月ころから
自営業をしている祖母の仕事場へ毎日一緒に行き、過ごしていました。
ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、寝る場所も一緒で、
家族の中で一番信頼していました。

年少になり、私は書道を習い始めました。
小学生になり、初めは楽しく習っていたのですが、級や段が上がるにつれ、指導も厳しくなり、周りとの競争も激しくなりました。
怒られるのが嫌になり、落ち込んでいる様子を見た祖母は
「字は一生もの。成長している姿を見るととても嬉しい」
と励ましの言葉をかけてくれました。
その度に、また祖母の喜ぶ顔が見たいと頑張っていき、
書初めでは特別な賞を受賞する姿を見せることが出来ました。

中学生になり、将来について考えるようになりました。
祖母からは、「保育士が向いてるよ」と言われており、
私も子どもと触れ合うことが大好きだったため、高校も
保育科のあるところへ進学しました。

高校入学と同時に祖母が体調を崩し始め、入退院の繰り返し。
半年たったころ、母が泣きながら「おばあちゃん、あと数か月しか生きられない」と知らされました。
家族の前で突然の報告で、自室でひたすら泣きました。

余命を告げられた次の日、心の整理がつかないまま
祖母のところへ行きました。
祖母は相変わらず、「高校はどうだった?」
と他愛もない会話をしてきてくれました。
ですが、私はどうしても涙が堪えきれす
「アイス買ってくる」と売店に行きました。
その間に心を落ち着かせ、病室に戻りました。

いつもなら病院食を完食する祖母ですが、
半分残し「そのアイス半分頂戴」と
小豆もなかのアイスを一緒に食べました。
「おいしいね」と笑顔で食べていた祖母の顔は
いまでも忘れられません。

そこから祖母は衰弱していく一方で、
会いに行くたびに心が痛くなりました。

授業を受けていた私は祖母の最期に立ち会えず
病院についた時にはきれいな顔で寝ていた祖母が
いました。
まだ生きているのではないかと思い、
「冗談だよね?」「起きてよ」
と何回も話かけていました。

数か月たっても、祖母との別れが受け入れられず
祖母の写真に話しかける毎日。
いつの日か日課になっていました。

月日が経ち、私も高校を卒業しました。
祖母には生前、『いつでも家に帰って来れる距離に
いてほしいと』と言われていたため、地元の保育の短大に
進学しました。

保育の道も厳しく、実習やピアノ、精神的に辛いことが
続いていましたが、祖母との約束のために
必死に勉強し晴れて保育士になりました。

保育士になってからは、連絡帳や日誌など字を書くことが
多く、様々な先生や保護者から「見やすくて良い」と
話しかけて褒めてくださることが多くなり、祖母の
「字は一生もの」という言葉をしみじみ感じています。

母のように私のことを育ててくれた祖母には感謝しか
ありません。
直接親孝行のようなことが出来ず、後悔していますが
地元に就職し、結婚して、祖母と住んでいた家で
生活をしています。

おばあちゃんも喜んでくれていたら良いなと
思う毎日です。

この記事を書くにあたって、こうして祖母との
生活を思い出すことができ、良い機会をもらいました。

久しぶりに、小豆もなかのアイスを食べようとおもいます。

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