きんばあちゃんの思い出
大正生まれの祖母は、今になって思い出すと、ずいぶんとこだわりの無い、さっぱりした人だったんだなあ、と思う。
私たちは離れて暮らしていたので、会えるのはせいぜい年に数回だったが、どんなに記憶を絞り出してさかのぼってみても、「こうでなければ」とか「目的のものが無くて困った」とか、そういう話の流れになったことがない。
何かを買いに行ったが手に入らなかった時でも、行こうとしていたお店が閉まっていた時でも、「じゃあ、いいやいいや」この一言で済ませてしまう。
そもそも喜怒哀楽もよくわからず、人に対して何かを期待している風でもなかったし、人との折り合いが良い悪いというのもあまり考えていなさそうだった。
潔癖な私の母は、そんな万事ズボラでおおらかな祖母があまり好きではなかったようで、「出されたお茶に毛が入っていた」だの、「居間がホコリだらけだ」だの、用があって仕方なく電話した時など、たまたま祖母が出かけるところで忙しくしていたらしく「勝手に電話を切られた」などと、幼い私に愚痴をこぼすのだった。しかし、子供の私でも不思議と、祖母に悪意があるようには全く思えず、おばあちゃんらしいなと思っていた。
なので、祖母サイドからすると、うちの母のことは別に好きでも嫌いでもなかったと思われるため、いつも同じ態度で同じように接していた。時候の挨拶やらお世辞、他人に気を遣うといった面倒な部分が一切なく、孫が挨拶しようがしまいが、全然興味がなさそうだった。
私たちが着くと「よく来たね」、帰るころには「また来いよ」、それはいつも変わらなかった。
97歳まで生きた祖母は、晩年も寝たきりにはならず、おむつをするくらいで他に特別な介護は必要としなかった。
人間は年を取るとこだわりが強くなったり、子供のように駄々をこねたりする話をよく聞くが、祖母はそのようなことがなかったらしい。
最後に会ったのは、亡くなる数か月前だ。夫の海外赴任について行くことになり、久しぶりに顔を見に行った。
なんと祖母は泣いていた。
「よく来たね、よく来たね、会えてよかった。」
会えるのはこれが最後だと、祖母はわかっていたのかもしれない。
「1年に1回は日本に帰ってくるから、元気でいてね。」そう言って祖母の家を後にした。
赴任先に着いて数日後、祖母が亡くなったとの連絡を受けた。
しかし、着いたばかりなうえに、これから帰国するとなると、日本に着くのは早くても2日後だ。
父に「通夜にも葬儀にも出席できなくてごめんね。」と伝えると、「着いたばかりなのはみんなわかっているから気にするな。」と言った。
これから異国で始まる生活がどうなるか不安だった私は、日本からの距離の遠さもあって、祖母の死が現実のものと理解するのに時間がかかった。そして、そのことを消化しきれずに時間だけが経ってしまい、いまこの文章を書きながら、涙が次から次へと流れてくる。
おおらかな祖母は、私が墓参りに行けなくても、仏壇にお線香をあげられなくても、「いいやいいや、また今度で。」と言うだろう。
その”今度”が無くたって、私を責めたり悲しんだりすることはないだろうと思う。
亡くなってから7年も経ってしまったが、ようやく祖母との思い出を振り返ることができた。そして、そのこだわりのなさは、自分には真似できない、実は達観した一面だったのではとも思う。
祖母への気持ちを文章という形にできて、弔い方としては他の人と違っても、祖母ならきっとこう言って許してくれる。
「いいやいいや、ありがとな。」