カエルのポーチと真っ黒の5円玉。

大好きなおじいちゃん。貴方が天国に行ってから、もう9年経ちました。
中学二年終わりの春、3月10日、母の慌てた声で目が覚めました。
「おじいちゃんが車に轢かれた!急いで病院行くよ!」
寝起きの私は理解が追いつかず、ただぼーっとしていて、最初に思ったことが
(あ、朝練行かなくていいんや。学校に電話しよう)でした。
私はこの時苦手な運動部に入りたてで、元々サボり癖があったため、毎日どうやって休もうかずっと考えていました。
その休む口実ができたとこの時思ってしまいました。
先輩にメールを送ったあと、家族とは遅れて姉と一緒に病院へ向かいました。
車に轢かれたとはいえ、そんなに大怪我ではないだろうと、姉と道中話しながら行きました。
病院に着いた時、入口入ってすぐ左の緊急室。
入ると祖母、母、父、弟が並んで立っていました。
何を立ちつくしているのだろうと左から覗いた時、言葉を失いました。
そこには、耳から大量に出血をし、顔色のない祖父が横たわっていました。
なんでという姉の叫び声と、家族の泣き声が響き渡りました。
私は震えが止まらず、立つことさえできず、その場に泣き崩れました。
そんな私を父は引っ張って外へ連れ出し、病院でそんなに泣くな。泣くなら家で泣きなさいと諭しました。
きっと父はこの時、誰よりも辛く、誰よりも我慢をしていました。
だけど父親として、しっかりしなくてはいけないと、この後のこともあるからと、必死に自分を押し殺していたんだと思います。
悲しみに包まれながら、家族と帰宅をし、祖母や父はお葬式やお通夜について話合っていました。
そのあと私は何をしていたか全く覚えていません。
ただ覚えていることは、漁師だった祖父がいつも餌や釣りの道具をいじっていた裏口の車庫にある古びた木の椅子に、しばらく座ってぼーっとしていたことです。
遺体が返ってきてから、しばらく家の中はお通夜の準備や、お葬式の準備で慌ただしくなりました。私はご飯が喉を通らず、ずっと祖父の眠る棺桶の前にいました。眠る時もずっとそこにいました。
あまり話したことない親戚や、知らないおじさんおばさんが入ってきて線香を立てる姿に嫌気がさしていました。
祖父が亡くなった次の日、テレビでは東北が壊れていく映像が流れていました。東日本大震災当日です。
大変なことになってると、家族は大騒ぎしていましたが、私はただぼーっとテレビを眺めていました。
そんな時祖母が、こう言いました。
「おじいちゃん、三途の川渡る時、寂しくないね」
初めて祖母の涙を見ました。
亡くなった人達からしたら、不謹慎な発言に思えるかもしれませんが、私はこの言葉に少し救われたんです。
おじいちゃん、寂しくないねって。
お通夜の日、夜私は夢を見ました。地震の夢で、今でも鮮明に覚えています。
電信柱が倒れてきて、足が動かなくなり、もうダメだと思いました。
その時、急に足が動くようになり、聞き慣れた優しい声が耳に入りました。
「まだこっちへ来たらいかんで」
そこで目が覚めました。それは間違いなく、祖父の声でした。
目が覚めて急に泣き始めた私を、母が必死になだめていたのを覚えています。
お葬式も無事に終わり、しばらく経ったある日、祖母の怒鳴り声と、父や母の声が聞こえました。
祖父を轢いた、加害者が花束を持って謝りにきたのです。
「この度は…」という声しか聞こえませんでしたが、私はそれ以上その声を聞きたくなくて、急いで二階に上がりました。
どれだけ謝られても、どれだけ花束を積まれても、祖父は二度と帰ってこないのです。
火葬の日、いよいよ祖父と本当にお別れをしないといけません。骨になった祖父を見て、姉は過呼吸を起こしました。父と母が必死になだめている横で、私は無言のまま骨を拾いました。
そんな私を見て、いとこの母(祖父の娘)が「泣かずに拾えて偉いね」と言ったのを覚えています。泣けたらどんなにいいかと思いました。この時の私は、すでに精神を病み、泣くことすらできなくなっていました。
火葬からしばらく経ったある日、私は一人で海に行きました。
祖父は、この海沿いのガードレールでいつものように自転車でゆっくり散歩をしていた時に、後ろから携帯操作による前方不注意の車にはねられたのです。
そこにただ立ちつくして、ぼーっとしていました。すると、あるものを見つけました。祖父の自転車についていたライトです。事故の衝撃なのか、割れていましたが、絶対に祖父のものだと確信しました。何故なら祖父は、自分の自転車を黒に染めていて、そのライトの端には、黒いペンキが散っていたからです。
私はそのライトを握りしめて、家に帰り家族に見せました。家族もみな、おじいちゃんのだねと言っていて、祖母は寝室から小さなカエルのポーチと、折り畳まれた紙を持ってきました。
「これ、おじいちゃんが持ってたポーチと、おじいちゃんを火葬した日に遺骨と一緒に出てきた5円玉。あの人すぐ小銭ポケットに入れるから、火葬場の人気付かず焼いたんやね」そう言ってライトと紙をポーチにしまい、私に渡しました。
今でも私はそのポーチを、カバンに入れています。
9年も経ったから、真っ黒の5円玉を包んだ紙は茶色くなっちゃったけどね。
長くなりましたが、最後におじいちゃんへ。
おじいちゃん、ごめんね。私は9年間、ずっと後悔してきた。なんで、あのときすぐに病院行かなかったんだろう。なんで、彼氏ができたからと言って、彼氏が家に来るたびにおじいちゃんを蔑ろにしたんだろう。
どれだけ口答えしても、おじいちゃんは優しかったのに。亡くなる2日前に、3月が誕生日の私に、誕生日当日一緒にプレゼント買いに行こうって言ってくれたよね。約束は果たせなかったけど、久しぶりにおじいちゃんと笑って話ができた気がして、本当に嬉しかった。おじいちゃんがいなくなってから、私が高校を卒業するまで、おばあちゃん寂しいから一階でずっと一緒に寝たよ。私が受験勉強してる時も、おばあちゃん夜食作ってくれたり、明るいの苦手なくせに私が電気つけて勉強してるの、我慢してくれてたんだよ。いい奥さんだね。でも朝が早すぎて、私が遅すぎるからよく怒られたよ(笑)今でも元気に畑仕事してるけど、日光苦手なくせにずっと休まずやってるから、少しは休めって叱ってあげてよ(笑)私は来年の3月で24になるよ。結婚まだしてないや。花嫁姿見せたいって言ってたの覚えてる?天国からならどこにいても見れるよね!いつか必ず見せるからね。受験の時も、仕事面接の時も、いつもあのカエルのポーチ持っていってるよ。おじいちゃんも一緒に受験して、面接受けてるみたいだね(笑)お姉ちゃんは2人女の子が産まれたよ。23にして2人のおばちゃんよ私。いま世界ではウイルスの感染が広まってるけど、家族みんな元気です。愛犬のダックスは亡くなったけど、そっちでも一緒散歩してるかな?前みたいに一緒に転けたりしないようにね。私はまだまだ子供だし、未熟だけど、精一杯今を生きていくからね。そっちで家族全員揃ったら、ずっと行けなかった釣りに行きたい。サメ釣るぞー!(笑)しばらく上から見守っていてね。9年経った今も、これからも忘れない。家族の大切さを教えてくれてありがとう。大事に育ててくれてありがとう。大好きだよ。本当にありがとうおじいちゃん。孫より。

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