母さん、すまなかった。

母さん、あの頃の12歳の私は母さんが捨て台詞を言って、あんたたちお母さんの言う事聞いてくれないって泣いてたのか?そのまんまの格好で出て行ったから、二人の弟と姉弟3人で数日生活したよ。
あの時の私は母さん帰って来るって待ってた。
親戚からのおかずも届かなくなって米と醤油しかないから3人でそれ食べた。
後に児童相談所の人来て、あんとき私は母さんに捨てられたんだと本気で思ってしまったから、
弟らに施設行くよって荷物まとめた。
10年前母さん死んでから知ったんだ、身内が母さんを精神病院に閉じ込めたって。
私が21歳で赤ん坊連れて母さんの病院に会いに行ったけど、母さん私に口紅買ってくれてたね、
私は無意識に睨みきかして母さんが口紅持ってる手を叩きはらったら、口紅遠くに跳んでしまったね、あんとき、母さん下向いたままなのに私は帰ったよ。今なら母さんの気持ちが痛いほどわかれたよ、母さん化粧しないのに、あんとき私と会えたら、うちのお姉ちゃんも二十歳だからって、口紅買って待ってたんだね、ちゃんと私のことあんじてた。

父さんは他の人と同棲してた、母さんに私は秘密したよ。母さん泣いてたね、お父さんどこに行ったんだろって。
母さん病気だったから、あんときの私はわからなくて、
母さんと同じ病になった私今なら母さんを理解できる気がするよ。
薬物に私は溺れて依存性になり、家族は崩壊して、
振り返ると罪ばかりだから私。
薬物に溺れてたときに母さんの声聞きたくて電話したよ。
今思うの、母さんを信じてやれんかったから、
母さんごめんね。
捨てたのは私だった。
母さんに凄く会いたいよ、母さん夢に出て来てくれたね!
私を夢の中で助けてくれてゾンビから守って空高く私を引っ張って飛んでくれたね、私の宝物だよ。
私は随分と罪をおかして子供らを傷つけて自己中心に生きすぎました。
52歳でなんでだろ?死ぬ気がしてました。
今その年になりました。
ぶっきらぼうにしか生きれません、私は。
毎日過去のお化けが私に乗っかります。
母さんに会いたいよ。
母さんが大好きだったから。
恨んで生きました、でも母さんのことだから、悲しまないでって心配するね。
母さん昔は分裂病って身内やらバカにされてて、
それでも母さんはちゃんと三食のご飯と洗濯したきれいな服着せてくれて、部屋はいつもきれいで。
母さんは精神病院で30年もよくぞ生き抜きました、ちゃんと精一杯生きましたね。
最後母さん苦しい顔で亡くなってしまったから、あんときは私は現実逃避したくて、
二度と母さんの顔にかかった白い布をめくることができなかったら。
母さんの服とかも病院から受け取りしたのに見る触るもできなかったら。
10年かかったけど、やっと母さんの死を認めれてきました。
母さん生きてるときに私は母さんにちゃんと聞かなかったから、
私らを捨てたの?って。
思い込んで勝手に恨んでしまったから、
母さん本当にごめんなさい。
時々ね、母さんの笑ってた顔思い出す。
写真が全て無いから、私や弟らの赤ん坊からの全て無いから、
記憶にある母さんを思い出にしてるから。
母さんはなんにも悪くない、
周りの人間がもっと良い人らの中に母さんいたなら、
きっと。
釧路に一人だけおばあちゃんいたね!母さんのこと大切にしてくれてたね、
小さい私も感じてました。
おばあちゃんに感謝です。
他人だけども、本当に優しい方だったね。
母さんは昔はそれは秘密です、をテレビ観ては泣いてましたね。
病気の母さんがうちら、3人面倒みるのは大変だったね!弟はやんちゃだし、私は口返すし。
小6ん時、母さん初めてハンバーグ作れたね、玉ねぎゴロってしてたけど、
あれすんごく美味しかったよ!嬉しかったから、ありがとう。
母さん病気だからすぐに混乱したりパニックやら、
母さん、私は母さんの真似できないよ(笑)
私はもう無理だ。
母さんうちら、産んでくれてありがとう、
そして、
もうそっち行っていいでしょ?
もう頑張れない。生きなきゃならないから、
私はこのそらノートに助けてほしくって、
なにかに頼りたくて。
今はシラフで生きても、やっぱり生きづらくて、
それでも母さんだけは私のミカタしてくれるから、
いつも母さんを想う。
母さんと離れて40年、母さんに会いたいよ。

昭和43年生まれ。

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