亡き母への後悔
私の母は私が小学校の時離婚し、女手1人で私と姉を育ててくれました。
常に前向きで頑固で周りから誤解を招くこともありましたが、私たち姉妹には深い愛情を持って育ててもらいました。
誤解を招くのは自営業をしていた気質から育ったものだと私たちは知っています。
姉が結婚し、私と母の二人暮らしは母が亡くなる日まで続きました。
母が体調不良を訴え病院へ向かったのが昨年の夏。食道がんステージ4でした。
子育てに全力投球した母は医療保険の加入をしていませんでした。私達姉妹への負担を考え母が選んだのが治験治療…
先生の説明も「金銭面の負担もなく抗がん剤の副作用もほぼ無いよ」と
治験に対して無知だった私達は賛成しました。姉も以前子宮ガンで抗がん剤に苦しんだ経験からです。
初の抗がん剤投与から2週間、母は急に異常なまでの倦怠感に襲われ動けなくなりました。検査の結果から即入院。肺炎も患っていました。
治験による副作用がでたのです。
その時点で治験は終了し、悪くなった肝機能と肺炎の回復を待って一般抗がん剤、放射線治療へと切り替えることになりました。
私はまだその時は安易に考えていました。
実際は少し回復し、以前より悪化の展開を繰り返し入院から1ヶ月、母が腎不全と肺炎により命の危機に陥りICUへ入らせてくれとの先生からの緊急連絡。その3日前辺りから母の状態は素人の私から見ても危機感を感じていました。
もしかするとこの2、3日が山場になるかもと。私は激しい後悔の念に襲われ背を向けていた治験の薬について手当たり次第調べました。遅すぎたのですが……
病院の計らいか、偶然か4日後母の意識が戻ったとの連絡で飛んでいきました。
人工呼吸器装着で会話は出来ませんでしたが穏やかな日が続きましたが長くはありませんでした。肺炎の状態が今までで一番最悪の状態に陥ったのです。
その日、私はいつもの時間に見舞いに行ったのですが母のナースコールが尋常な回数じゃなかった。先生も快く来てくれるのですが母は手を振るだけ。一分も待たずナースコール。別の先生を呼んでは手を振る??そして時折苦しそうに胸を押さえる。そんなやり取りが15分も続いた頃突然私の耳を取り自分の口元へ寄せ何かを訴えてきました。呼吸器を着けているので声がでません。私は「ごめん、分からないよ」といつものようにマジックとノートを渡したのですが、母はペンは取らずに私の耳元へ訴え続けました。
2、3度繰り返したあと母は突然胸を押さえて苦しみからもがきはじめたのです。
ICUを信じていた私は先生の邪魔にならないようにと少し様子を見てから帰宅しました。
次の日見舞いに行くと母は鎮静剤で寝かされていました。まだ微かに意識があって私に気づいたので「苦しくないか?」「だるくないか?」母は大きく顔を横に振りました。私は「薬が効いてるから寝た方がいいよ」と…
それが母との最後の会話になりました。その後の先生の説明で母が苦痛を訴えたのが夕方、実際に鎮静剤で落ち着いたのが次の日の昼、20時間も苦しませたのかと先生に食って掛かっていっちゃいました。母の「苦しいのだけはイヤ」と言う意見を尊重した治療をすると言っていたのに…ICUって設備は整ってるけど実際は手厚な完全介護ではないのだと痛感しました。
ICUに入るまでも母は何度も肺炎による苦痛を訴え「肺の治療はもういい」と訴えた。そして治験とは副作用に対する治療が出来ないこともサイトで知りました。無知な自分をこのとき程責めたことはなかった。私の経済力の無さから母を治験という選択肢に導いてしまった。
苦しいのはイヤだという母を何度も苦しめてしまった。そしてこの先、いたずらにダメージを軽減させても最後に待っているのは食道ガンであること。悩みました。鎮静剤で寝た母にもう苦痛はありません。何度も先生と話し合いをさせていただきましたが結論にいたらず、抑制剤による副作用も手付かず、ガン治療も全く手付かずのまま肺治療だけの時が過ぎていきました。
そして、ある日先生に呼ばれ、また肺炎が悪化しています。これ以上の薬の増量、投与は身体的な限界にきています。医療の限界です。と、
延命を望まない母の希望にずーっと自問自答し続けていた私は承諾しました。呼吸器以外の全ての治療から手を引くと。
なぜ、こんなことになったんだ?
母は食道ガンだったのに重度の間質性肺炎に苦しんだ。痛み、苦しみ、延命はしない!そして、やり残したことがある!もう一度だけ家に戻りたい。
これまで私は母の望みの一つも叶えてやれなかった。1人でいると涙さえ出てこない。先生の最後の話から一週間後、母は息を引き取りました。
母が副作用による苦痛を訴えてからあっという間の出来事のように感じています。そして空虚、後悔。あれから3ヶ月。
母が笑っていたのがついこの間のように感じて未だに仏壇で手を合わせることが出来ずにいます。
二人暮らしのなか娘として私は母の窮地になにもしてやれなかった。
私に経済力があれば治験の選択肢も存在しなかった。治験の怖さを知っていれば母の意見に賛成しなかった。母の苦しみを解放してやれなかった。そして、母の最後の耳元の訴えも理解できなかった。 私はもうムリだと、もう死期を向かえているいうことだけ理解したけど、その訴えは知らぬふりをしてしまった。どう対応したらよいかと逃げてしまった。
母のやり残したこと、、緊急入院だった為家の中のことは手付かずだったから?
いろんな事が未だに頭の中を駆け巡っています。唯一ICUで意識を取り戻し筆談で会話をした日が奇跡だったのかな?あの日で私の時は止まったままで今日に至ってます。1人になった今、泣くとこも留まることも進むことも出来ずに自分はどこにあるのか分からなくなってる。
ただ仕事に逃げて無になってがむしゃらに没頭するだけの日々を送ってます。
長々とすみません。
ただ、母という存在があったということを何かに書き留めておきたかった、それだけで投稿させていただきました。
そして、身内の方に万一のことがあったとき、医療が進んでいる今たくさんの治療法があると思います。最後に決めるのは本人かとおもいますが、私の経験を参考に家族皆さんで慎重に話し合いサポートしていただけたらと思います。
私もこの投稿を機に一つ前に進めたらと思っています。
それがなにかは模索中ですが。。
最後に母は亡くなりましたが私の中で母は生きています。短い入院生活のあれこれを払拭できたら、その時は母に時間をかけて一つ一つ恩返しをしていきたいと思っています。